担降りするしないの次元はとうに超えてしまった私と嵐の20年

二宮和也に一方的に出会ってから21年間、過ごしてきた青春の日々が走馬灯のように蘇る

 

去る2019年12月6.7日に福岡で体感することができました。

 

ここには、私自身の備忘録として残しておこうと思って書き殴っています。
誰かの賛同を得たいわけでも特に無く。
活動休止や、自担の結婚についても触れますので、
苦手な方は回れ右でお願いしますね。

 

 

 

 

 

 

母に叩き起こされたデビューの朝
この日から今日まで、人生の半分以上を嵐とともに駆け抜ける日々を過ごしていくこととなります。

 

ステージの上でアイドルしている嵐を初めてコンサートで目にしたのは、2001年におこなわれた「嵐が春の嵐を呼ぶコンサート」。
(その前に2度嵐のV1生収録と台ジェネビデコン参加歴有)

北海道厚生年金会館

当時地元北海道にいた私は、札幌のコンサートに行けることを今か今かと指折り数えて、やっと叶った願いでした。

 

初めて嵐が札幌に来てくれたコンサートの会場は、キャパ2000ちょいくらいだったかな。
小さいね。今じゃ考えられない。

 

そこで初めて振ったペンライト。

 

ペンライトの頭の部分がもげ、前の座席に吹っ飛んでお姉さんに睨まれたっけな。
小さなあの会場で見たぼんやりとした記憶の中の初々しい嵐が、遥か遠くにいるヤフオクドームのステージ上の堂々とした姿の嵐と重なって、気が付けばボロボロと泣いてた。

一緒に入った、デビュー前から相葉担の友達も横で肩を震わせてた。

 

1周年で出したこの曲を初めて披露したのは確かMステだったかな。
にののヘアアレンジがとても可愛くて、ビデオが擦り切れるほど再生したっけ。

 

 

まだ1~4曲目。
このあとまだまだコンサートは続いていくのに、畳み掛けがすごい。トップスピード。
涙腺など、とうに1曲目で崩壊しているし、むせび泣きの状態で恥ずかしい(けど止まらないエンドレス)。
持っていったOneのタオルはすでにグショグショだった。

 

コンサートが終わって、少し冷静になってから思い返せば、
ラブソングでも大泣き、過去の映像見て大泣き。
にのをかまってくれるメンバー見ても大泣き。
気持ちを落ち着かせようと双眼鏡で自担を追っても止まらない涙。
むしろ溢れ出る。顔面の蛇口2つが全開フル稼働。
残像だけで泣ける、奇妙な体験もしました。

しまいには翔くんの開幕の挨拶が福岡初日何言ってるか私にはよく聞き取れなくて、
「し”ょう"く”ん”、な"に"言って”る"か”、せ”ん"せ”ん"わ"か”ら"な"い"ぃ"」
って言いながら嗚咽したのは、自分でもよくわからない。

 

3時間半のうち、通算2時間半近くは視界がぼやけていたので、
この曲のどこに泣き所あります???と、周囲の人には引かれてたかもしれないし、要所要所で嗚咽がうるせえなと思われていたかもしれない。
この場を借りて謝罪申し上げます。

 

今回のアニバコンに参戦してみて、とても強く感じたのは、
コンサートに来ていた私たち一人ひとりが、
”僕ら(嵐)にとってかけがえのない君(ファン)”を感じさせてくれる、そんな想いがたくさん詰まったコンサートだなと思いました。

ありがたいことに毎年毎年ほぼ参戦出来ていたけど、今回のは特に、そう思いました。

 

私たち一個人は、嵐にとって多くのファンの中のたったひとりに過ぎなくて、
名前どころか顔さえも知られていません。
けれど、嵐5人は昔から、本来遠いはずのその距離を少しでも埋めようと、気持ちで寄り添いファンの願いや想いを全力で返してくれる。
そんなグループだからこそ、ここまでたくさんの人に愛される5人になったんだと日々思います。

 

なかなか売れずにくすぶっていた頃から、
スタンスは一切変わっていないと思うし、距離は遠くても気持ちは近くに感じるのはあの5人だからなんじゃないかな。

 

たくさんの曲の中で、歌詞がとても胸に沁みる楽曲が多いなぁと改めて噛み締めたんですが、
その中でも昔から以下2曲の歌詞が、アイドルとして存在し続けてくれる未来を想像することができて特に好きなんですが、

 

1つ目
<Oh Yeah>
もう一度 あの日に戻るとしても 同じ路選ぶだろう

 

2つ目
<Lai Lai Lai>
もしも
生まれ変わってもこのライトの下へ

 

Oh Yeahはコンサートの定番曲でノリも良いから結構歌われてきてますけど、
Lai Lai Laiに至ってはMステで一回とOneでしか多分歌ってないのかな?
アイドルであることへの強い誇りと信念を感じる力強くたくましい歌詞に今でも元気をもらっています。


ので、松本潤くん。
Lai Lai Laiを是非国立で歌っていただきたい。
松本潤くん。
Lai Lai Laiを是非国立で歌っていただきたい。
大事なことなので2回言います。

 

 

 

ここ数年、以前ほどの熱量はなくCDや円盤を買うことはなくなって、
ずっと予約になったままのテレビ番組を週末にまとめて見る程度のお茶の間をしてました。してます。

 

いつもかならずそこにいる、絶対的に存在し続ける

 

綺麗事に聞こえるけれど、
絶対的存在への安心感と、いつでも帰ってこれる場所が嵐だった故の甘え、そして余裕。

 

1月27日、絶対など無いんだと知りました。


FCからのメールも差出人だけ見て読まずにポイしてたのに。
その日だけ、本当にその日は妙な感覚があってメールを開いてみた。
たまたまメールが来たタイミングでスマホを見ていたからかもしれないけれど。

 

サイトを開くと同時に目に入る


”活動を終えたい”


この一文に手が震えて鼓動が早くなったのを今でも忘れない。


AbemaTVを起動して、嵐の会見での発言を淡々と読み上げて中継するアナウンサー声に、
ただ、泣くしかなかった。
国民を巻き込んだ盛大なドッキリだって言ってよ、と。
ファンはこういう時にはとことん無力だ。


でも、22時になり、嵐自身の会見を目にした時、
嵐がいつもの嵐で、いつもの雰囲気だったから、もう泣くのはやめようと思った。

 


嵐を宝箱に閉じ込めたい

 


「5」であることにこだわり続ける嵐のこの決断に、
全てまるっと納得できるかと言われればそうではないけど、
嵐5人らしいなと、最後は笑って泣きました。

 

そこから様々な発表があって、ジャニーズ事務所がこのデジタル社会の波に乗った!と、
おっかなびっくりしながら日々を過ごして、
アニバコンまであと何日、何日って数えながら楽しみにしていた矢先の自担の結婚発表。

 

驚きとともにこみ上げるなんとも言えない気持ち。

 

どうしてこのタイミングじゃなきゃいけなかったのか

もう耳にタコができるほど聞いて目にしたこの言葉。

 

アニバイヤーを駆け抜けようとしているメンバーと他担に対して申し訳ないという想い。
2日後に控えるコンサートへ参戦する人の想い。
ファン向けのコメントがコピペのフルネーム。
そして関係者向けのどらやき。(どらやきはにのらしくてちょっと苦笑い。ドラえもん好きだからね)

 

いつか自担が結婚する時、
複雑な気持ちにはなるけれど、盛大にお祝いしたいって思っていたこの感情をどこにぶつければよいものかと。
メンバーからの「おめでとう」の言葉を聞くこともできないなんて、
悲しい以外の言葉が思いつきませんでした。

 

 

 

二宮和也との一方的な出会いは8時だJ

今すぐもらえる1万円と、一年後の10万円、もらえるならどっち?という質問に対して「10万円」と答えた彼の理由が、

 


「ぼーっとしてたら1年経っちゃいますもん」

 


これを聞いた瞬間、私の幼いハートに火がついた気がした。

そこから坂を転がるように二宮和也担当として今日まで過ごしてきた。

 

 


私は”嵐の二宮和也”が好き。
だから二宮和也が結婚してもいいし、それが一因となってファンをやめるなんてことはありえない。
それは前からずっと言ってること。

 

今回の結婚は、もちろん二宮和也が結婚したわけであり、”嵐の二宮和也”が結婚したわけじゃないって、
そう思うけれど、

嵐の二宮和也に価値を見い出してると感じざるを得ない言動の数々が、二宮和也と嵐の二宮和也を切り離してくれません。


人々は言う。
アイドルが結婚するとファンは荒れるけれど、
自分が結婚できるとでも思っていたのか。と。

違うよ。

 

例えば、応援している何かのスポーツのチームが試合に負けた時。
自分の思っていない試合展開だった時。
怒るでしょう。憤慨するでしょう。ブーイングするでしょう。
自分が試合に出ていたわけじゃないのに。
その感覚と少し似ていると思います。
だって、アイドルを応援する事はスポーツ観戦同様に、ひとつの趣味なんだから。

 
そして、この件に関して、結婚がダメだと怒っていたファンは少なかったと思う。
私ももちろんそのひとり。

 


いっそ嫌いになれたら、無関心になれたら、アンチになれたらどんなに楽だろうと思います。

でも、生まれた子供が成人式を迎えるほどの長さも応援していた人を、一瞬で嫌いになれるはずがないよなぁ。
だからこそつらい。無関心になれたらって。


新たな推しが見つかっても、
にのに対して担降りって単語を使う次元は、とうに越えてしまったし、
衣食住嵐
と、そこにあって当たり前の存在に嵐がいてくれた時間が長すぎて、今更無きようにもできません。

 

好き故に毒も吐くし、やることすべてを絶賛したり、賛同したりもしてこなかった。
周りから見れば、愛の足りないヲタクだったかもしれない。

 

とはいえ、口ではなんと言おうとも、ずっとにのの味方でいたいと決めていた。
あなたが、
嵐に真っ直ぐで、
嵐が誰よりも好きだと、
嵐のファンだと、
そして、
嵐としてそこに存在してくれているから。


あくまで私の主観です。
自分自身のことは割と矛盾した物言いをする人だったけど、
嵐に関しては矛盾なく正直な想いをいつもぶつけてくれる人だったから、
味方でいたいって思った。

 

本当に、にのがこの日を狙って、このタイミングで発表しようと思ったのか、
本音と建前もあるし、メディアを通さない本当の想いをあなたの口から直接私が聞くことは死んでも来世でもできない。

相手に強く言われたんだよね?にのの本意じゃないんでしょって、
自担をかばいたいよ、本当は

 

一つ感じ取ることができたとすれば、
”20年連れ添った仲間を大切に思う気持ち”と、
”自身の結婚”を別軸で考えてる
ということなのかな。

 

私は、結婚が発表された時、
いやいやタイミング…とか、嵐の20周年大事にしてくれよと思った。

 

けど、
私と仕事どっちが大事?という不毛な質問と同じで、
そもそも比べる対象じゃないと考えているのかもしれない。
(嵐と嫁をね)

 

結婚は二宮和也がしたもので、嵐の二宮和也がしたわけじゃないもんね。
知ってる!


顔も名前も知られていないただのファンのひとりにしか過ぎないけれど、
これからも、嵐二宮和也がアイドルとしてライトの下で輝き続けられること、
そして、ひとりの人間としての二宮和也くんの幸せを、心より願っています。


味方でいたいという話で思い出したんですけど、
夏コンや冬コンが多い中、なかなか祝えなかった自担の誕生日を、ワクワクというかたちでお祝いすることができた2012年。
その時のレポを書いていたのをふと思い出したので、
ここに掲載しておきます。
元記事のURLを貼ると、過去のおぞましい私のブログが全部読めちゃうので、本文だけ載せます…
(読み返しててほんとに鳥肌止まらなかったんで)

 

病気がちでよく熱を出していたこと。
それ故耳が痛くなり、鼓膜に膿がたまって鼓膜切開を何度もしたこと。
熱性痙攣で夜中に救急病院に運ばれたこと。
おたふく風邪になったこと。
中学の検診で心臓に異常があると言われたこと。
生後3ヶ月で金玉袋に水が溜まって、揉んで治したこと。

習い事は続かず、
公文ではやりたくないと泣き叫んだこと。
ピアノ教室では寝た振りをしたこと。
野球だけは続いたこと。


手紙の最後、

”かず、私の元へ生まれてきてくれてありがとう。にのママより。”

と、締めくくられていて、
この一言の重みが今でも思い出すだけで涙が出そうになる。


ほんとは涙堪えてたんだろうなと思って。

潤くんが手紙読み終えた後、にのが話したんだけど、

”手紙聞きながら泣いちゃうかなぁと思ったけど、
金玉の話で涙が引いた”

みたいに言ってて、笑いにもっていってたけど、
『泣いちゃうかなぁ』
って言いながら、左胸あたりを、とんとんって自分で叩いて
落ち着かせてたのが、
すごく印象に残ってて、
ああ、堪えてるなと。


二部では、
小学校低学年の時に、いじめられていた話をしていたようで、
精神的にも不安定だったというお話。




ジャニーズのタレントって、
常に完成された部分しかあまりファンに見せない所がとても特徴的だと思っていて、
なかなか裏側を知る機会ってそんなにないイメージ。
だから、もちろん、
にのが身体が弱かった話や、いじめに遭っていた話も、
さらっとしか、本人の口から聞いたことがなかった。
アイドルに人一倍こだわってる人でもあるから、
明るい自分をいつも前に前に出してるのかなぁーって。

にの自身も普段、
周りから同情を買うような物の言い方はしないし、
努力とか、苦労とか、絶対にしているのに見せない。
別にそこに着目して俺頑張ってるっしょ?すごいでしょ?って
言う人間でもないだろうし、嫌うと思うし。

たとえコンサート前や収録前に体調不良や腰を悪くしても、
私たちファンの前に出てきたときは、不安を感じさせない振る舞いをしてくれる。
陰の部分なんて、ほとんど見せた事ないし、
むしろ、同情されること自体嫌うタイプの人間だと思うから、
絶対に、俺可哀想でしょ?なんて、顔にも言葉にも出さない。

だから、逆にそれが見てて心配になったり、不安になったり、
もっと弱音吐いたり、泣いてもいいのになって思うときもある。
泣き虫だと思ってたにのが、ある時を境に泣かなくなって、
もうどれくらい経っただろうね。


自分の口からは決して言わなかったし、
言えなかっただろうから、
和子ママに手紙を通して、人前でああして言ってもらえた事で、
にの自身の鎖がひとつ解かれたのかな。と。


いじめの話についてもそう。
さらっとしか聞いたことなかったし、
そこまで気にしてない素振りでいた。

けど、幼少期の記憶って根っこ深いよね。
私もいろいろあるからなんとなくそう思う。


だから、まあ、あの日のあらしちゃんのあの企画には、
私はいまだに根に持ってるけどね。
そもそも、にのに対してじゃなく、対象が誰であろうと、
生きた人間に卍切りして塩撒いた事への配慮のなさと、侮辱に
いらだった。

と、話が脱線してしまったので、この話はこの辺で。


そのほか、
和也の名前の由来が、
"穏やかで人の和を大切にする人になってほしいと思いをこめて”
つけられたお名前で、
そのほか候補に『大』と書いて『ヒロシ』とかw
メンバーも、もしかしたら今ここでヒロシって呼ばれてたかもねwって笑って。


小さい頃、怖がりでジェットコースターに乗るときおなか痛くなったり、
甘えん坊で、お母さんの耳たぶいじらないと寝付けなかったり、
保育園に行くとき、緊張して
「ポポポ ハトポッポ」を寝言で歌ったり。


手紙の内容を聞いていて、
和子ママにとって、にのは、本当に自慢の息子で、
29歳になっても、かわいいかわいい子どもなんだなって。
愛されて育ってきたら、今のにのがあるんだなあ。


二部では、
お母さんが2歳のころから働きに出てたから、
夏に旅行に出かけたり、頬ずりしたり、ぎゅってしたり、
スキンシップをよく取って、愛情表現をしていたお話をしてたみたいで、
こういうところが今のにのに活かされてるのかあと。

って事は、にのがスキンシップ過剰に取る相手に対しては
愛情がものすごく深いって事のひとつだもんね。
かわいい。


いやもうね、本当に、

”私の元へ生まれてきてくれてありがとう"

って一文が胸に刺さって、
思い出すだけでも泣きそう。
潤くんのゆっくりとした朗読もとても良かった。


二宮和也という存在を知ってから、
かれこれ14年経過して、
こうして初めて6月17日、同じ場所で時間を共有してみて、
やっぱり、好きだなと改めて、思ったなぁ。

幼少期のつらい経験もあったけれど、
今のにのには、
絶対に裏切らない4人がいて、
大事に思ってくれる家族がいて。



私も
ただのいちファンだけれど、
これからも、ずっとにのの味方でいようって。
そう思う。




お誕生日おめでとうございます。


いつだって味方だよ。
あなたが嵐を想い続けてくれているとファンが感じていられる限りは。ずっと。

 

 


にの
あともうちょっとだったのに、
今まで20年間
嵐のひとりとして一生懸命頑張って頑張って頑張って、
努力して努力して、ここまできたのに、
どうして、あとちょっとが我慢できなかったの。
節目のタイミングで、
アニバーサリーツアーは続いてるんだから、
ひと段落ついてるわけないって、絶対頭では分かってるはずだよ。
自分で油を撒いて火を起こし、ほとんどのファンに祝福のコトバを貰えない結婚を迎えるなんて、
こんな悲しいことは無いです。

 

 


最後に、あの日から今日まで言ってなかったことがあるので、
この言葉で締めて、気持ちに整理をつけたい。

にのちゃん、結婚おめでとうございます!
あなたが、
私の、
いちばんのアイドルでしたよ。
これからもそうでいてほしいし、
そこに存在し続けてほしい。
名も知らぬファンの願いです。


そして嵐。
私は、嵐が時代に追いついたとは思っていません。
時代が嵐に追いついたんだって、
そう、ずっと、心から思っています。

辛い時、悲しい時、苦しい時、楽しい時、嬉しい時、
必ずそこに存在してくれていたから、私の20年はとても華やかで輝いていました。

これからの発展と成長と、大きくなって帰ってきた時の姿、
想像しても眩しすぎて見えません。
また一緒に、頂点の先の先へと、
私たちファンひとりひとりを、連れて行ってほしいと願うばかりです。

 

20年走り続けてくれてありがとう

Thanks a million

 

2019年12月17日